伝教大師 最澄

言い伝えによるところ、

1200年前、平安時代初期、律令制の中央集権政治の弘仁の時代、天台宗比叡山延暦寺の開山、伝教大師最澄が美濃の国に来られ、野部(のぶ)(神戸町大字川西)にの地に足を留められました。その時代神戸町周辺は「平野庄」と呼ばれ、比叡山延暦寺の荘園(大きな寺院や神社. 貴族がその財力で新しく開墾(かいこん)した土地のことを指します)として、古来より延暦寺とは関係の深い土地でした。

 伝えるところによるところ、その地には夜になると神々しい光を放つ一本の大木がありました。それを見られた伝教大師は、その大木を切り、仏画(版画)を刻み、この霊木の跡地を霊地とみなし、一つのお堂を建立されました。そして、「霊木光を放って仏性を顕した」という意味を込められ「青雲山 野部 光澄院 性顯精舎」と名付けられ、お弟子の賢栄を住持にされました。したがって、性顯寺の開祖は伝教大師と伝えられています。

 また、ちょうどその頃、伝教大師の噂を聞きつけた安八太夫安次は大師を招き、この地に社を建てて日吉山王神を祀り、この地の鎮守としました。

大師が比叡山に帰られた後、性顯寺は社領を相続し、また末寺181ケ寺と共に、美濃の地における仏法弘通の一大拠点として、以来680年余り、天台宗の教義を護り伝えました。

夜になると神々しい光を放つ一本の大木

明王像は、密教である真言宗の開祖空海や天台宗の開祖最澄などの手によって平安時代の初期に日本に持ち込まれた。

不動明王を中心とした五大明王、東に降三世明王(ごうざんぜみょうおう)、南に軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)、西に大威徳明王(だいいとくみょうおう)、北に金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)を配する場合が多い。

むかし、 成木の山の上に1本の楠(くす)の老木があった。 大人が3人がかりで腕をまわしてもとどかないほどの大木で、 まるで、成木谷をにらみすえているかのようであった。

いつの頃からか、 この老木は、 夜になると青白いあやしい光を放つようになった。 その上、 時々けものとも人間とも思えぬぶきみなうなり声を上げた。

村人は、 恐ろしさに近よる者もなかった。 この噂は遠くまで広がり、 ちょうど東国を巡錫(じゅんしゃく)しておられた僧行基(ぎょうき)の耳に入った。

「うむ、 何か深いわけがありそうじゃ。 わしがみてしんぜよう」 行基は、 わざわざ楠のある山上へやってこられた。

じっくりと大木を見上げていた行基は、 やおら木の下で座禅を始めた。 村人が見守る中、 行基の座禅は続き、 やがて夜はふけた。 あたりは真の闇。

と、 楠がザワザワと枝をゆすり始めた。 それは、 まるで青い炎に包まれたようだった。

そのうち、 炎の中に忿怒(ふんぬ)の形相ものすごい軍茶利明王(ぐんだりみょうおう)のお姿が浮かび上がったのだ。

「おお、 これは! そうであったか。 この老木には軍茶利明王の霊がやどっておられたのか。 あの光は、 この木が枯れてしまわないうちに明王のお姿を刻み、 この村の守り本尊にせよとのお告げであったのか」

行基は、 すぐに村人にこの大木を伐り倒させた。

そして、 1丈2尺(約3.6メートル)の軍茶利明王の像を刻んだ。 また、 一宇(いちう)を建立してこれを安置した。 これが、 安楽寺の基であるという。

成木の語源は、 木が鳴った、 鳴木、 すなわち成木となったのだそうである。